2013年9月21日 (土)

健全な肉体に狂気は宿る~曖昧な身体感覚の再評価~

『健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体』/内田樹・春日武彦/角川oneテーマ21

orandum est, ut sit mens sana in corpore sano

これは「健全なる精神は健全なる肉体に」というスローガンに訳された古代ローマの詩人ユウェナリスの言葉である。誰もが一度は耳にしたことのある有名なフレーズであるが、実はこの訳は間違って広まった訳であるという説がある。本来は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」ことを祈るべきだと人々に説いたという説である。この説の意味するところは「健全な肉体には健全な精神が宿る」という我々のよく知る内容とは大きく異なっている。しかし、本書の主張はその説よりもはるかにラディカルだ。それは「健全な肉体に狂気は宿る」という主張である。

都立墨東病院の精神科医である春日は、患者の身体がいい時には薬が増え、むしろ病気になった時の方が精神病の薬を減らせると言う。患者は身体に余裕がない内は精神的に落ち着いていられるが、身体が回復すると精神の病が再燃するのである。

生存の危機にある時、人間は精神を病むゆとりを持たない。精神の異常は身体に余裕があってこそ起きる現象なのである。事実、戦時中には精神病患者が少なかったことを内田は指摘する。

 

内田「戦争中もそうだし、それから精神病院で長いこと入院しているような患者さんでも、死にかけるとよくなったりしますからね。あれを見てると、そうか、身体の方にゆとりがあるから狂ってるだけなんだなって。」

(『健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体』p.163)

 

 精神と身体は独立しているものであるように語られがちである。近代において人は自らの理性を主体とみなし、一方で肉体を客体として捉えることを覚えた。また、現代物理学は主観的の標準を放棄して物質界自身に標準を定め、非人間的自然観を押し進めてきた。いわば、人間の心が外界と切り離されたのである。しかし、人間の心身はそう簡単に二元論的に分けられるのであろうか。

こうした単純な二元論に内田は真っ向から反対する。人間は言語化できない情報を身体によってキャッチしているのであり、心はその影響を受けている。人々が感じる「虫の知らせ」は曖昧な身体感覚から来ているのであり、警察官が怪しい人間を見分けられるのはこうした身体知に優れているからである。淘汰を生き延びた人類にはそうした高い身体感受性を備わっているのである。

しかし、現代ではこうした曖昧な身体感覚は切り捨てられる。語られうり、計測しうる能力のみが存在を認められ、価値あるものとされるのが現代社会の特徴である。近年の成果主義、能力主義では例外なく「数値化できる能力」に重点をおいている。人間は身体感覚によって非言語的なデータを総合して隠れたものを見つけるという複雑な能力を持っており、それを駆使することで危機を回避してきた。だが皮肉にも、曖昧さを捉える人間の能力はその複雑さ故に存在を認められなくなっているのである。

 

 内田「「邪眼」とか「視線が突き刺さる」とか言いますからね。そういう敵対的な視線にはそれなりに物理的な実感があったんでしょうね。昔の侍は背中に家紋をしょってたわけですから、背中に目がないと困るでしょう。大事な家紋に汚れた手で触られたりして、大変じゃないですか。」

春日「現代では、そういう能力というのは、なんだか信用されにくいんですね。言語化できないものを信用しない傾向がある。非科学的だという理由でね。そういうものを全部そぎ落としてしまう。」

(『健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体』p.169)

 

 

 世界は複雑であり、人間の理性でその構造を把握することはできない。人間は言葉を用い、論理を操ることで世界を説明しようとする。しかし、因果が単線的に繋がることは珍しい。世の中の現象は複数の線によって生じていることがほとんどである。この無数の線を全て理性によって捉えることは不可能に近い。だからこそ曖昧な身体感覚が意義を持つのである。

2013年5月29日 (水)

【小説】マグマ~神の火に代わる、地熱という力~

『マグマ』/真山仁/角川文庫


 「これは、あくまでも僕の独断と偏見です。この十年の停滞の最大の理由は、電力会社が、原発という神の火を手に入れたことで、後戻りできなくなったからだと思います」(p.97)

 

 作者の真山仁は『ハゲタカ』シリーズを初めとした経済小説で知られている。

 真山仁の特徴は、「緻密な取材をもとに現代社会の闇に切り込む」というスタイルを取っていることである。その筆致は『マグマ』においても冴えわたっている。

 

―あらすじ―

外資系投資ファンド会社勤務の野上妙子が休暇明けに出社すると、所属部署がなくなっていた。ただ1人クビを免れた妙子は、支店長から「日本地熱開発」の再生を指示される。なぜ私だけが?その上、原発の陰で見捨てられ続けてきた地熱発電所をなぜ今になって―?政治家、研究者、様々な思惑が錯綜する中、妙子は奔走する。世界のエネルギー情勢が急激に変化する今、地熱は救世主となれるか!?次代を占う、大型経済情報小説。

(BOOK」データベースより)

 

 『マグマ』が初めに出版されたのは2006年のことである。3.11以来、原発に代わる新たなエネルギーに注目が集まっているが、筆者はその5年前からあるエネルギーに注目していた。それは地熱である。

 地熱発電とは文字通り地熱(主に火山活動による)を用いて行う発電である。地熱発電は石油や石炭などの化石燃料を使わないクリーンエネルギーである上に、国内で自給することができるという大きなメリットを持つ。また、懸念であったコスト面も近年では費用対効果が上昇し、現在では8.3/kWhを可能にしている。特に地熱の盛んな九州電力では、八丁発電所にて7/kWhを達成しているほどである。これは発電コストが低い石炭の6~7/kWhに見劣りする数値ではない(エネルギー白書』(2010))

 しかし、それにも関わらず地熱発電による発電量は全体の約0.2%にすぎない。最も地熱発電の盛んな九州電力においても九州の2%を担うのみである。

 地熱発電が進まないのは何故か。それは、地熱発電の有力スポットの大半が国立公園内にあること、温泉組合の強い反対があることである。地熱発電が可能な地域には温泉や国立公園があることが多い。そのため発電所の新設は利益関係者から強い反対を受けるのだ。(真山はHPにて地熱発電が進まない理由について「地熱は、なぜ無視され続けるのか」という文章を書いている。)

 また、もう一つ大きな理由がある。それは原子力発電の存在である。オイルショックまで、日本の発電を支えていたのは火力だった。しかし、原油価格の高騰やエネルギー消費量の増大により、日本は長らく原子力発電に頼ることになった。そして、原子力発電は日本の総発電量の三割を占めるまでになった。

 原子力発電に大きな危険が伴うことは、福島原発事故以前からあらゆる場で批判されていた。災害への対策が不十分であることや、定期的な点検の必要性は昔から指摘されていたのである。けれど原発は止まらなかった。国や電力会社は「問題ない」の一点張りを続け、結果事故が起こった。

作中にこんな場面がある。原発は止めようと思えば止められるのではないか、という妙子の質問に対し、地熱発電の老技術者御室が応える場面である。

 

「我々は禁断の神の火を手に入れてしまったために、後戻りできなくなっているんだよ」

「神の火、ですか」

 「そうだ。石油や石炭では考えられないような爆発的なエネルギーを僅かな原料で生むことができる奇跡。原発なら一基の発電機で、100万キロワットもの電力が生まれる。それを何基も据えれば、効率もよくなる。こんなぼろい発電を手に入れた人間が、それを捨てられるかということだよ」

 

原発という神の火は独りでに燃えているのではない。燃やしている者がいるのだ。神の火に代わる存在となり得る地熱。地熱を押し進めようとする妙子と御室の前に、彼らは立ちはだかる。また、温泉組合や政治家、外資系企業など、様々なサイドの思惑が絡み合う。『マグマ』を読んだ後、私たちは複雑怪奇なエネルギー業界の裏側を覗き見るとともに、エネルギー不足に悩むわが国の未来に、わずかばかりの希望を持てるようになるだろう。

2013年5月21日 (火)

ビブリオバトル観戦記(in早稲田大学 2013/5/20)

「ビブリオバトル?なんだそれ?」

そんな人のために説明すると、ビブリオバトルとは「参加者が本を持ち寄ってプレゼンをし、どの本が一番読みたくなったか」を決定する知的書評合戦である。

 

【ビブリオバトルの手順】

1.お気に入りの本を持って集まる!

2.順番に一人5分で紹介する!(+2~3分のディスカッション)

3.「どの本を一番読みたくなったか?」で投票を行い チャンプ本 を決める!

(知的書評合戦ビブリオバトル公式ウェブサイトより)

 

このビブリオバトル、最近徐々に知名度を上げてきている。文春新書から『ビブリオバトル 本を知り人を知る書評ゲーム』(谷口忠大著)が発売されたほか、新聞やテレビメディアにも紹介された。

 

手軽に行える書評コンテストという、読書好き、特に書評好きにとっては垂涎もののこの企画。調べてみたところ、大学や書店などでけっこう頻繁に行われているらしい。

ということで、実際に観戦してきました!

場所は早稲田大学図書館。雨の中にもかかわらず観戦者は20名ほどいました。

今日は準決勝ということで参加者は五名。この内三人が決勝に進出します。

五名の持ち寄った本は、

 

 『市民の会議術 ミーティングファシリテーション入門』/青木将幸

 『人は何故学ばなければならないのか』/斎藤孝

 『怖い絵』/中野京子

 『残像に口紅を』/筒井康隆

 『絶望の国の幸福な若者たち』

 

の五冊。

十人十色ならぬ五人五色。それぞれ全く異なるジャンルの本を各自の切り口で紹介していました。

例えば「人は何故学ばなければならないのか」を紹介した男性は、素朴な疑問を考えるところに学びがあるという筆者の主張を、「何故アリは存在しているのか?」という本文中にある一節を引用して紹介していました。

また、「絶望の国の幸福な若者たち」を紹介した男性は、「今自分が幸せだと感じているか」「日本の将来に希望を感じているか」といった質問を投げかけることで、本の内容を観戦者にとって身近に感じさせるという工夫を凝らしていました。

バトルと銘打っているものの、終始和やかなムードで行われていた本大会。参加者がプレゼンや質疑応答中に見せた素の表情に、場内から笑いが沸き起こるなどの場面も。

 

そうしてあっという間に終わった本大会。

結果は……

・『人は何故学ばなければならないのか』/斎藤孝

・『残像に口紅を』/筒井康隆

・『絶望の国の幸福な若者たち』

 

を紹介した三名が決勝進出!

中でも『残像に口紅を』は観戦者から強く支持され、本日のベストに決定しました!

プレゼンを聞いていて、「実際に読みたい!」と思わせるような、まさにビブリオバトルの本義をかなえるような発表でした。

 

「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。

(BOOK」データベースより)

 

ベスト本に選ばれた『残像に口紅を』のプレゼンは、テーマを一言で表していた点と、発表者がどこに魅力を感じていたかを自分の言葉で伝えていた点が印象的でした。

「言葉自身に感情移入できるかということを試みた実験的小説」と作品のテーマを言い表したのちに、「二回目に読むときには消える前のひらがなにノスタルジーを覚える」として、ひらがな一つ一つに対する自分のイメージを伝えていました。考えていた言葉なのか即興で捻りだした言葉なのかはわかりませんが、作品の魅力を伝えたいという率直な気持ちが伝わってくるプレゼンでした。

 

初めて観戦したビブリオバトルでしたが、「こういう切り口もあるんだな」という気づきの得られる良いイベントでした。もっと流行ってもいいんじゃない、これ。

 

2012年10月25日 (木)

自分を知るための哲学入門~ソクラテス―思想史上の反逆者―~

自分を知るための哲学入門/竹田青嗣/ちくま学芸文庫

ソクラテスは思想史上の反逆者である―

 

こう書くと驚かれるかもしれない。一体ソクラテスは何をしたのだと。革命的な新たな理論でも構築したのかと。

 

しかしそうではない。むしろ逆である。ソクラテスの反逆は彼のエポケー(判断留保)から始まる。

 

エポケーとは主に現象学で使われる用語であり、あることに対する判断を留保、すなわち正否の判断を棚上げすることである。では、ソクラテスは何について判断を留保したのか。

 

それは当時のギリシャの伝統的価値観である。それは「世界はそれ自身により客観的な秩序を保って存在している」という信念であった。古代ギリシャの哲学者は「世界は何で出来ているのか」という問いに取り組んでいた。例えばタレスは万物の祖(アルケー)を水とし、アナクシマンドロスは「無限なるもの」とするなどして理論的に世界の起源と全体を説明しようと試みてきていた。その試みの前提には世界が客観的に存在しているという信念があった。

 

しかし、ソクラテスはそうした信念をエポケーしたのだ。代わってソクラテスが持っていたのは、「世界は客観的な事実として存在している」という伝統的な観念とは逆の、「世界を秩序づけるのは人間の精神(ヌース)である」という考えであった。世界はそれ自身によって秩序を保って存在するのではなく、人間の知性が世界に秩序を持たせると考えたのだ。

 

世界を秩序立てるのが人間の精神である以上、探求するのもまたこの人間の精神である。そして精神の秩序とは、いかに(善く、美しく、ほんとうに)あるかを決めるものである。つまり、真に探求すべき哲学上の問題は「真・善・美」の問題であるとした。

 

ソクラテスは人間に一番大事なことは「善く生きること」であると考えていた。そのことはプラトンの記した『パイドン』の中からうかがえる。

 

「人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。」

(プラトン『パイドン』)

 

「真・善・美」という絶対的な真理が存在するというこの立場は、「反真理主義」であるポストモダンの思想から激しく批判される。何が善であるのかという問題は所詮人それぞれである、と彼らポストモダニストは主張するのだ。

 

しかし、ソクラテスは相対主義に反逆する。当時のアテネは相対主義者であるソフィストが跋扈した時代であった。彼らにとっては、人間社会には真実らしいこと以上の真理はなく、その真実らしさは実際的有効性によって決せられた。だからこそアテネのデモクラティズム(民衆政治)において弁論術を駆使して多数を獲得し、自らの利益を拡大することに腐心していたのだ。こうした時代の趨勢にソクラテスは決して乗らなかった。彼は「人間の至上の目的は善く生きることである」という信念を死ぬまで曲げずに持ち続けた。

 

当時のソクラテスの心理について竹田はこう分析する。

 

「ソクラテスが痛切に感じたのは、要するにそこではなにがほんとうに善きこと、正しいことかをきちんと問い詰めていく道すじが閉ざされている、ということである。数のための政治、数のための議論の中では、ひとびとは権力と財力につくことだけを一義とし、『ほんとう』『よいこと』『美しいもの』を求める人間の本性はすたれてしまう。これを失えば人間は単に現実的な力の論理だけに奉仕するものになる。そういうアテネの精神風土に意義を唱え、人間の『ほんとう』を追求する道すじをつけること。そういう点に彼らの思想の根本的なモチーフ(動機)があったのだ。」

(竹田『世界を知るための哲学入門』p.130

 

むろん、人間の本性は「ほんとう」や「よいこと」を追求することであるというこの考えすらも、所詮はロマンにすぎないと一笑に付されてしまうことがある。いかに相対主義を克服しようにも、それは原理的に不可能である。しかし、「真・善・美」を求める根拠が奪われてしまうと、それは生きる意欲の喪失につながる。ロマンは人の生きる糧であるからだ。

 

多様な価値観が存在し相対主義が蔓延する現代社会では、全ては平等に無価値であるという虚無感に襲われることが多くなっている。そうした中で自分自身のロマン、信念を強く保ち続けること。それはニヒリズムやシニシズムによる価値の喪失へのささやかな「反逆」となるだろう。

2012年10月 1日 (月)

新恋愛講座~西洋と日本の恋愛観~

新恋愛講座/三島由紀夫/ちくま文庫

「恋愛」は人々の誰しもが興味のある永遠のテーマであり、それ故にその観念も普遍的であるかのように思える。しかし、我々日本人が持っている恋愛観念は、元来日本にあった観念に加え、西洋、つまりギリシャとキリスト教それぞれの恋愛観が混ざったものである。
 ギリシャにおける恋愛はキリスト教が出る以前の恋愛である。プラトンは『饗宴』において、恋愛というのは美しいものに対して我々が心を惹かれることだと言っている。何故なら人間には自分の中に欠けたもの、より完全なものを求めるという意識があり、美しいものはその美しさにおいて自分に勝っており、自分に欠けたものを備えているからである。このより高い物、より美しい者、より良いものを目指すというエロス的欲望があるからこそ、その美しいものを自分のものにしたいと思い、愛が生じる。
 そしてその愛がだんだん高い程度に進むと、初めは相手の肉体だけを欲しいと思っていたのが肉体以上の精神の美しさを求めるようになる。そして精神の美しさを押し進めると、徳や心理と言うものを求めるようになり、それを永続させようという意志が人々を芸術作品や英雄的事業に向かわせる。
 プラトンの作品においてディオティマという知恵のある女性が登場する。その言葉は次のようなものである。
「日常の個々の美しいものから出発して、最高の美を目指して絶えず上っていくことは、ちょうどはしごの階段を上るようである。そして、一つの美しい肉体から美しい職業活動へ進み、美しい職業活動から美しい学問へ進み、さらに学問から出発して、ついには本当の真理、つまり美の本質を認識するまでになる」
こうしたギリシャ人の考え方を見るとわかるように、ギリシャ人にとって恋愛というのは学問を愛したり英雄的な行動に臨んだりすることと同じ、エロス的動機から起こっている。

ギリシャの愛の特徴は人間の欲望をまず肯定して、そして欲望をだんだん清め、高めていくところにある。これに対し、キリスト教の考える愛は、肉欲を離れた精神的なものであると考えられている。動物的な欲望を汚いものとみなし、それを排することで本当の愛に辿りつくというものである。
これを基本的な観念とした上で、キリスト教はそれに様々な装飾を付与してきた。その一番中心となるものが聖母崇拝である。全く男女の交わりをしないで子供を産んだ女性であるマリアへの愛、マリア崇拝がキリスト教徒の愛の基本になっている。
それが一番明確な形で現れたのが騎士道である。騎士というものは、何も求めることのない誠実さと忠実さをもって、自分の仕える貴婦人に尽くさなければならない。騎士は神に対するが如く絶対の奉仕で、自分の誠を尽くし、命を捧げて恋愛する。このように、欲望を離れて美しいものに誠を捧げるということがキリスト教徒の恋愛の根底に存在している。キリスト教において恋愛とは、マリアに対する憧れに帰着し、自分の欲望を抑えつけて、最大の誠を捧げ、時には命を捨てることもあえてするようなものなのだ。

ギリシャの恋愛は人間の欲望を肯定した上でそれを高めていくものである。一方、キリスト教の恋愛は動物的な欲望を悪性と廃し、動物性が浄化されるのは子孫の繁栄を目的とした結婚の時のみとしている。これに対し、日本古来の恋愛は本能+感情である。露骨に言ってしまえば一緒に寝たいという欲望、それに繊細な感情の美学が加わったものが日本の恋愛なのである。
例えば「万葉集」では美しい別離の情や、恋人に久しぶりに会った喜びなどの生活感情を素材にして愛が述べられている。また、「伊勢物語」や「源氏物語」においても、恋愛はただ感情から綴られた。このように、恋愛を哲学や騎士道と結びつけたヨーロッパと違い、日本の恋愛はそれらから隔絶した世界にあり、感情の形でだけ浄化してきた。

しかし、明治以降様々なヨーロッパ的観念が流入してから、現代の日本ではそれらと日本古来の恋愛観念が入り乱れていると三島は指摘する。

「(中略)西洋の恋愛の中には、たとえ映画で通俗的に描かれたものの中にも、キリスト教的な罪の意識もあればマリア崇拝の考え方もある。そういうものによって知らず知らず、われわれは恋愛の形を思い描いているのです。そうかといっし、昔の日本人のように感情の力だけで恋愛を美化したり浄化した、それほどのひまもなければ、それほどの余裕もない。非常に忙しい人はいきなり本能的な欲望に結びつけて、それで満足してしまう。恋愛なんていうことを考えない。いくらかひまができる人は,いきなり観念的にヨーロッパ的な恋愛に結びつけて空すべりをしてしまう。ロマンチック文学は日本では十分発達しませんでしたが、しかしロマンチックな恋愛の考え方による悲劇は、決して一つや二つではなしに、いろいろな形で明治以来ずっと起ってきているのです。」(p.18)

ここで三島は「悲劇」という言葉を使っている。ヨーロッパから流入した恋愛観念はしばしば悲劇を引き起こしてきたとしているのだ。ヨーロッパ的な恋愛観念、特にキリスト教におけるそれは人々を強く縛る。キリスト教は欲望否定の宗教であるが、それが広まった理由として、もともと本能的欲望の強い西洋人が、欲望を破滅的に開放して自らを滅ぼすことに恐怖心があったことが考えられている。
自覚的に自らを縛ることでそこに自由を見出すという考え方は、熱心な宗教者のみならずカントなどの哲学者も持っているものである。しかし、本人が無自覚の内に日々の生活の中である観念が無意識に刷り込まれ、それに縛られ苦しんでいるとしたら、それはまさしく「悲劇」に他ならないだろう。

2012年9月25日 (火)

愛という試練~愛という暴力性を伴った信仰~

愛と言う試練-マイナスのナルシスの告白-/中島義道/紀伊國屋書店

「愛のない 人生なんて そんなの生きる自信ない」
これは浜崎あゆみの『Love song』の一節である。
現代の日本において愛を語る言説は至る所に氾濫している。音楽・テレビドラマ・小説など、愛を題材とする作品を見ない日はないほどだ。そしてほぼ全ての場合において愛は無条件に肯定される善なるものとして捉えられ、人間が人間たるための必要条件とまでみなされることもある。
こうした風潮を示すような事例として、あるテレビ番組における石原慎太郎都知事の発言がある。

この番組は若い男女50人が愛について語るもので、石原はその場にゲストとして呼ばれていた。そこで彼は若い男女たちに「こいつのためなら死んでもいいと思ったことのある人は?」という質問を投げかけた。そして続けざまに「そんな経験のない奴は自殺した方がいい!」と吐き捨てるように言った。
会場で彼の発言に反論する者はいなかった。さも当然であるかのように受け入れられたのだ。
これは現代日本の象徴的な事態であるとともに、愛という言葉の神性、不可侵性を人々が無条件に了解していることを示している。
だがこのような素朴な信仰が人々に受け入れられている一方、愛という観念は暴力性を孕んでいることを中島は指摘する。

現代日本のマジョリティはひとを愛することは当然であり、この能力の欠如している者を人間のかたちをした怪物のように忌み嫌う。どんなに学力があっても、仕事ができても、ひとを愛することができなければ虫けら同然だという論理を振り回す。他方、愛することさえできれば、いかなる欠点をも帳消しにするほど人間として立派なのだと考える(中島 2003)

これこそがまさに恋愛至上主義というドグマの持つ暴力性に他ならない。
ここであえてドグマという言葉を用いたのは、信仰を理性よりも優位に置くという点で人々の愛に対する態度が宗教に対する態度と通じているからだ。ここでは信仰の「正しさ」を理性的に確認しないという立場が積極的に取られ、信仰に対する疑念が少ない者ほど「愛情の深い人」だと人々に認められるし、またその逆の者は「愛のない人」として侮蔑されることになる。
例えば娘が万引きをしたことでスーパーの店長から父親に呼び出しがかかったというケースを考えてみよう。この時愛情に溢れた父親で会ったら「もうしないよ」と泣きじゃくる娘の言葉を留保なしに受け入れ信じるだろう。だがここで「この前もそう誓って約束を破ったことがあったし、日頃の行いを見ると信じられないな……」などと発言すれば、娘は父親を冷徹で無慈悲な人間としてみなし怒りと失望を覚える。父親の理性的な態度は自分を信じていないことの表れであり、無条件に自分の味方であってくれるという愛を彼が持っていなかったことを示すからだ。ここで娘が父親に求めているのは、客観的な態度を捨て、自分の言葉が不合理であろうと、いや不合理であるからこそ自分だけでも信じようとする非理性的な態度なのである。

相手に非理性的であることを求め、信仰に屈服することを望むという暴力性を愛は持っている。しかし、愛の持つ暴力性はこれだけではない。愛は愛する者-愛される者の関係において暴力的な支配形態を作り出す。

愛する者-愛される者の間の支配関係と言うと、愛される者が愛する者を支配しているように思われる。愛する者の世界は愛される者に対する思い出で満たされ、その面影で充満するからだ。
だがこの世界は愛する者の「表象」にすぎないということを留意せねばならない。愛する者は愛される者を自らの表象に閉じ込め、愛される者が自分を支配するような王宮を造り出し、そこに相手を主人として、また自らを奴隷として配置した。ここにおいて配置の主体は愛する者であり、だからこそ実際は彼こそが主人であり、愛される者は主人という形をした奴隷に過ぎない。
しかし愛する者が愛される者を自らの王宮に閉じ込めた時、彼には再び苦難が生じる。愛する者は愛される者を表象と変えることでその「存在」を奪った。だがこうした転換は不可能であること彼は自覚することになる。自分が得られるのは相手の存在ではなく表象という巨大な贋物だと気付いた時、愛する者は自分が奴隷の身に転落したことを知り絶望する。
表象は存在の前では無力である。表象からはみ出して現実に存在する愛される者が現れた時、愛する者の表象世界は崩壊する。存在の前で、表象は自らが表象であることを自覚する他ないからだ。
そして相手の表象のみを支配することの虚しさ、存在を支配できないことの虚しさを知った愛する者は、その弁証法的発展を経てしばしば強行な手段を取ることになる。つまり、愛される者を自分の体感の内に留めておこうと、常に相手の存在を感じていようとするのである。
この欲望は、単純な形態では物理的拘禁といった形で現れる。しかし物理的拘禁は犯罪にも繋がるために頻繁に見られるものではない。現代日本にありふれた拘禁の形態とは、相手と自分とのあいだをガラス張りにしようという形での支配である。相手固有の世界を焼き払い、全てを「丸見え状態」にするという形での支配である。
相手の世界にすみずみまで侵入しようとする者は自分への秘密を一切許さない。「なんでも相談してね、ささいなことでも話してね」と相手に迫り、相手に隠し事があると分かるや否や「なんで教えてくれなかったの!」と責め立てる。相手が自分の支配下から抜け出ることを許さず、「どうして話してくれなかったの。私を信頼していないの?私を愛していないの?」と追及する宗教裁判を行う。これこそが愛によって生じる独特の暴力的な支配関係である。

人はロマンなしに生きていけない。無価値なままの生を生きるだけの強度を持つことは困難だからだ。だからこそ人は愛を渇望する。たとえそこに暴力性が潜んでいようとも望まざるを得ない。
だがこうした暴力性の無自覚は信仰への屈服、愛の持つ暴力性を無自覚の内に肯定することを意味する。だが相手を表象ではなく自己との同一世界内存在であると認めた上で独我論を脱し、一つの人格として尊重するために、暴力性の自覚は不可欠なものだ。
愛の持つ暴力性への自覚。これこそが愛という信仰に対して我々のできる、ささやかな理性的反抗なのだ。

2012年7月26日 (木)

反哲学史~ソクラテスのアイロニー~

反哲学史/木田元/講談社学術文庫

 歴史上の人物の中で一番な有名な人は誰か。ニュートンやナポレオン、はたまたイエスキリストなど様々な答えがこの問いに対してなされるだろう。しかし、西洋哲学史上で最も有名なのは誰かと問うた時、票はソクラテスに集まるに違いない。彼の人には著作が一冊もないのに関わらず、である。その影響力は計り知れない。その生まれから2000年以上経った今でも燦然と西洋哲学史の中に輝いているソクラテス。「ソクラテス以上の知者はいない」との声を聞いたデルフォイの神託や、「悪法もまた法なり」と毒杯を煽ったことで有名なソクラテスであるが、彼は一体何をしたのだろうか。体系づけられた知識などを後の哲学者のために生み出したから有名になったのか。否、そうではない。ソクラテス自身は何かを生み出す者というよりもむしろ徹底した批判者だった。彼は全てを否定する者であったのだ。

 ソクラテスがソフィストに対して徹底した問答を挑んだのは有名である。マイケル・サンデル教授がその独特の講義形式で話題となった時、質問形式で生徒とやりとりをする彼のスタイルを「ソクラテス式問答」などと称して評価する向きもあったが、実際の問答はそんなに生易しいものではない。『ゴルギアス』や『プロタゴラス』に見られるように、自分を無知なものとしてひたすら相手に問い続け、矛盾を生じさせる。それがソクラテスの問答であった。当時のアテナイ市民はそうした彼の態度を「エイローネイアー(空とぼけ)」と呼んでいた。アイロニーには矛盾した外面と内面が構造的に存在する。例えば「君は物知りだ」と皮肉交じりに言う時、外面に現れた言葉とは裏腹に内面には知ったかぶりをしているだという思いがある。そしてアイロニストは偽装した外面に対して無責任であり、キルケゴールはそうした事態を「皮肉においては、主体は否定的に自由である」と規定している。アイロニーにはまたそれを受け取る側にも偽装した外面と内面がという同様の構造を持ち、受け取る側の自己欺瞞を明るみにするという教育的効果があるが、ソクラテスは自由な立場からソフィストの矛盾を暴いていったのだ。

 キルケゴールの評したように、ソクラテスは否定的に自由であり続け、立場を取らなかった。自分を無知だとして他の知識や実在を否定し続けたのだ。彼がそうした態度を取ったのは、知的緊張を失った当時のソフィストに問題意識を持っていたからに他ならない。ソクラテス以前の自然哲学者達はフュシスとノモス、自然と法という対立する概念の中から真理を見出そうと努力していた。しかし、やがてノモス世界のみに関心が向けられるようになり、真実在であるフュシスに対して仮象に過ぎないノモス相互の間に真偽の絶対の区別はないとするソフィスト達が現れた。実社会のノモス、つまり儀礼・慣習・法律・制度などを相対視する彼らにとって、その真実らしさは実際的有用性によって決せられた。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉はまさにそうした相対主義の立場を示しているものである。このように真理を高いところに祭り上げて仮象に過ぎないノモス世界における利益追求に腐心するソフィスト達こそが、ソクラテスがアイロニーの刃をふるった相手であり、彼が一掃しようとしたのは世に憚る堕落したフュシス的存在論であったのだ。しかし、彼自身がそれに代わる新たな原理を持ち出すことはなかった。ソクラテスは生み出す者であるというよりむしろ否定者であったという冒頭の語はこのことを意味している。そして彼が無限否定性の刃で切り払った野にはプラトンが新たな存在論を打ち立てることとなった。こうして西洋哲学の陽は昇ったのだ。

2011年11月10日 (木)

「認められたい」の正体~空虚な承認ゲームから脱するには~

「認められたい」の正体―承認不安の時代 /講談社現代新書/山竹伸二

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

      
「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

著者:山竹 伸二

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 「誰かに認められたい」――そんな承認欲求は誰もが持つものだ。アメリカ人の心理学者、アブラハム・マズローが理論化した「マズローの欲求段階説」では人間の欲求を五段階に分類しているが、その「承認の欲求」は四段階目に位置している(ちなみに、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」の五段階)。そして、マズローは五段階目の「自己実現の欲求」を「成長欲求」としているのに対し、四段階目までの欲求を「欠乏欲求」としている。「欠乏欲求」が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。承認欲求は人が持つ基本的な欲求なのだ。

 しかし、現代ではこの承認欲求が得られにくい。高度経済成長期にあった、いい学校を出て、企業に就職をして、家庭を持って物質的に豊かな生活をしていれば幸せだ、といった「大きな物語」が終焉したからだ。価値観が多様化した現代では、このように生きれば良いといった指針は存在しない。自らの価値観が揺るぎやすい時代なのだ。

 そうした時、人は空虚な承認ゲームに陥りがちになる。周りの目を気にし、同調することで承認を得ようとするのだ。しかし、自分の本心を無視して得る承認は虚しい。さらに、身近な集団からの承認のみを判断の基準とすると、その他大勢の価値観を無視して暴走してしまうという危険もある。

 では、空虚な承認ゲームから脱するにはどうすればよいのか。それには自己ルールの刷新が必要となる。自己ルールとは自分を規定する内面の規律のことである。「~すべし」という当為の源泉である自己ルールを作り変えることで、自らの行動に承認を得られやすくするのだ。そしてそのためには、信頼できる他者の承認を介した自己了解による自己ルールの作り変え、つまり親和的承認を根拠とした自己の刷新を行い、その上で一般的他者の視点を入れることが重要となる。

自己ルールのゆがみを自覚し、そのうえで自分の本当の望み、何をすべきかについて、心から納得できる自己像と自己ルールを作り上げること。これが、自分の納得する形で他者からの承認を得て、空虚な承認ゲームから脱出するための鍵となるのだ。

2011年11月 1日 (火)

やさしさの精神病理~現代的”やさしさ”の行き着く先は~

書評形式からコラム形式に変更。

やさしさの精神病理/岩波新書/大平健

やさしさの精神病理 (岩波新書)

      
やさしさの精神病理 (岩波新書)

著者:大平 健

やさしさの精神病理 (岩波新書)

目の前で人が泣いている。彼(彼女)にとって深刻な事態が起こったようで、悲痛な面持ちをしている。さて、やさしい人ならここでどうするだろうか。深く共感し一緒に泣くのか。余計な言葉をかけずにただ黙って傍にいるのか。どちらが“やさしい”と言えるのだろうか。

精神科医である著者は、時代を経て“やさしさ”の質が変わったという。昔は相手の心に深く立ち入り、同情や共感をするようなのが“やさしさ”だった。いわば金八先生的な、熱血的な“やさしさ”である。翻って今日の“やさしさ”はもっとクールなものだという。立ち入らない。踏み込まない。そっとしておくのが“やさしさ”だと。

著者が受け持った患者の中で、ぬいぐるみへの執着を見せた者がいた。彼は言う。「ぬいぐるみが自分にとっていちばん“やさしい“存在」である、と。彼にとって、自分の心に踏み込まないぬいぐるみこそが”やさしさ“の極地なのだ。これは同時に、自分の心に干渉して欲しくないという彼の欲求をも表している。

過干渉より不干渉。干渉を求めないのが現代人に共通する特徴であるなら、彼らの求める先にあるのは“ぬいぐるみのやさしさ”しかない。口を開かず黙って自分を受け入れる者(物)を求める。たしかにそれは心地よいかもしれない。傷つかなくて済むからだ。

しかし、“ぬいぐるみのやさしさ”を求める人にコミュニケーションはできない。コミュニケーションは相手を尊重して初めて可能になる。相手を一つの人格として、かけがえのないものとして接することが前提として必要なのだ。だが、“ぬいぐるみ”を求める者にはその前提を持てない。彼が求めているのは「自分を黙って受け入れてくれる何か」であり、それは代替可能なものなのだ。

我々は傷つくことを恐れるあまり、“ぬいぐるみ”を求めることがある。だが、相手とのコミュニケーションを望むなら、一歩踏み出さねばならない。“ぬいぐるみのやさしさ”の先に、互いの尊重などありえないのだから。

2011年8月 2日 (火)

ダメな議論/飯田泰之/☆☆☆☆

東京大学経済学部卒の経済学者による「ダメな議論」を見抜くための方法論を説いた本。

ニート問題から財政赤字、平成不況まで、いかにももっともらしい議論がメディアを飛び交っている。じつは国民的「常識」の中にも、根拠のない“ダメ議論” が紛れ込んでいる。そうした、人をその気にさせる怪しい議論を、どのようにして見抜くか。そのための五つのチェックポイントを紹介し、実例も交えながら、 ダメな議論の見抜き方を伝授する。論理思考を上手に用い、真に有用な情報を手にするための知的技法の書である。     (「BOOK」データベースより)

この本のコストパフォーマンスは非常に高い。なぜなら本書で挙げられている五つのチェックポイントを意識することで、すぐさまクリティカル・シンキングを身に着けられるからだ。
その五つのチェックポイントとは以下のようなものである。

①定義の誤解・失敗はないか
②無内容または反証不可能な言説
③難解な理論の不安定な結論
④単純なデータ観察で否定されないか
⑤比喩と例話に支えられた主張

TVのコメンテーターの主張などでこれらのチェックポイント全てを突破しているものなどはほとんどない。短い時間で幅広い視聴者に向けた気の利いたコメントをしなければならないという制約があるからだ。だから彼らが「言葉の定義」や「データによる緻密な分析」をするだけの暇がないまま、万人に向けた「無内容で反証不可能な話」をするのもやむを得ないところがあるだろう。

こうした状況の中で必要とされる能力がクリティカル・シンキングである。メディア・リテラシーと言い換えてもいい。情報の受け手が「ダメな議論」を見抜けるようになる能力がこの情報過多の時代では重要なのだ。そして、ただ「あいつは好かん」「マスゴミの言うことは信用ならん」といって切り捨てるのではなく、どの点がおかしいのかということも指摘できればそこから建設的な議論を進めることができる。「~~の点がおかしいのでそこを明らかにして話を進めましょう」など。

派手な表紙と謳い文句を掲げた「ロジカル・シンキング入門」の類をレジに持っていく前に、まず本書を手に取ることを強くおすすめする。これ一冊で「ダメな議論」を見抜けるようになるとともに、自分が「ダメな議論」をすることも避けられるようになるだろう。

ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書) Book ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書)

著者:飯田 泰之
販売元:筑摩書房
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